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日本口腔顔面痛学会誌掲載記事(2014年6月)

 「ベルギーに引っ越すことになりました」と報告すると、大半の人からは「チョコレートの国ですね」と反応が返ってきました。一度だけ「ダイヤモンドが買える!」と。ベルギーといって私たちが思い浮かぶのは、まずはチョコレート、ワッフルなどのお菓子の国、グルメの国、ビールの国といった「食」がメインのイメージでしょうか。

日本人にあまりなじみのないベルギーですが、実際住んでみると町中で見かける日本人の多さに驚きます。日系進出企業は241社、在留邦人5713名 (平成25101日)。多くが日本企業の駐在員とその家族で、私も日本の化学メーカーに勤める主人の赴任に伴って来白しました。主人が独身のころからベルギーで仕事をすることがあったので話は聞いており、詳しくは知らないけどなぜか身近な国、いつか住むかもしれない国と思っていました。この度、日本口腔顔面痛学会でお世話になっている慶応大学病院口腔外科の和嶋浩一先生よりベルギー留学記をとお勧めがあり、僭越ながらご紹介させていただきます。留学を検討されている諸先生方の何かの参考になれば幸いです。

 

現在、日本からの直行便はなく、成田、羽田から飛行機でヨーロッパの主要都市空港まで約12時間、さらに乗り換えて1~2時間でブリュッセル国際空港に到着します。私はフィンランドのヘルシンキ経由が日本からの飛行時間が短く、空港もコンパクトで乗り換えが楽で気にいっています。

ベルギー王国についての概略ですが、人口11094850人、面積は日本の約12分の1、関東地方くらいの大きさです。公用語は首都ブリュッセルを中心に北部のオランダ語(フラマン語)、南部のフランス語(ワロン語)、一部ドイツ語が話されている地域もあります。ブリュッセルはフランス語、オランダ語の2言語併用地域です。ブリュッセルにはEU本部、欧州議会、NATOなどの機関があり、また移民をたくさん受け入れているので大変インターナショナルな都市で英語がよく通じます。

私たちの住むブリュセルの北東の郊外、Kraainem市はフランス語圏ですが、主人の会社と私の通う大学のあるルーヴェンはオランダ語圏というように、一国にいながら朝と昼と夜で耳にする言語が違うという環境です。フランス語圏といっても私たちの住むエリアはアメリカ人、イギリス人も多く、店員さんも英語を話してくれとてもフレンドリーです。日本人も多いのでマルシェで買い物していると「こんにちは」、「どうもありがとう」と片言の日本語をよく聞きます。広告や表示はオランダ語かフランス語かしかないので、生活し始めた当初はどちらがフランス語でどちらがオランダ語かもわからず、とても苦労しました。暮らすだけなら英語だけでも不可能ではないですが、仕事をするうえでも生活のうえでも情報が限られてしまい、せっかくの機会なので夫婦ともにフランス語、オランダ語を学んでいます。国際都市だけあって各国言語の語学学校がまちに溢れており、住民登録をすると日本では考えられないような格安料金で通えます。

 

ブリュセルの北東にあるルーヴェンは古い大学町であるとともにIMECという研究機関があり、主人も独身のころここで研究していたことがありました。世界でここにしかない実験装置があるのだとか。IMEC1984年にフランドル政府により設立された半導体プロセス分野を中心に技術開発を手掛ける研究組織で世界各国のエレクトロニクスメーカーの研究開発員が集っています。設立当初は約70名の大学の研究者中心の小所帯であったのが現在では組織全体で約1800人、このうち研究に携わる人員が1200人を超えます。

米、Intel社や韓国Samsung Electronics社、日本のPanasonicといった大手半導体メーカーをはじめ、半導体製造装置メーカーなど600社ほどの企業がIMECと共同プロジェクトに参加しおり、環境、エネルギー、ヘルスケア事業の技術開発拠点となっています。

 

まちの中心広場、グローテマルクトの石畳の上を自転車が行きかい、活気にあふれています

 

ルーヴェンはそんなハイテク産業の街である反面、1425年ローマ教皇マルティス5世によって設立されたルーヴェンカトリック大学(KU LEUVEN) を有する落ち着いた中世のままの街並みの大学街です。現存するカトリック系大学では最古の大学でまち全体にキャンパスや大学の施設、教会などが点在しています。この歴史ある大学に口腔顔面痛、顎関節症の世界的権威である教授がおられる、というお話を長崎大学病院でオーラルペイン・リエゾン外来を担当されている岡安一郎先生から伺っていました。先生は2年半年間、アントン  ラート教授のもとでペインクリニックを学ばれました。先生のクリニックには抜髄、抜歯したが歯が痛い、他院、他科で治療を受けてもなかなか痛みが治まらない患者さん、精神疾患を抱え、慢性疼痛に悩む患者さんが毎日多く訪れ、治療を受けられています。 

 

歯医者というと一般的に嫌がられる職業で、多くの人から歯医者は怖い、嫌いだと言われます。歯科医は本来、痛みを取り除く仕事。また医科でも痛い治療はたくさんあるのに、なぜ歯科治療だけが直感的に痛いというイメージをされてしまうのか。学生のころからずっと腑に落ちないでいました。岡安先生のペインクリニックを見学させて頂き、歯科医の仕事にもこんな分野があるのか、と驚き興味を抱きました。歯医者が痛みをコントロールする治療というものに心を捕らえられました。

研究熱心で温厚なお人柄の先生のもとには毎日たくさんの患者さんが訪れ、診療が終わるととてもいい表情で帰られ、見学させてもらっていた自分までもが癒されるような診療室でした。歯科的問題が本当に潜んでいないか、腫瘍ではないか、鑑別診断がきちんとできないと大変な結果をもたらすことがあり、頭痛、精神医学などの勉強も必要とする非常に難しい分野です。自分もペインクリニックを勉強して痛みと戦う患者さんの診療ができたらと目標を抱きました。

 

20144月よりKU LEUVEN歯学部口腔外科のペインクリニックで学ばせてもらっていますがここに来るまではなかなか一歩踏み出せず悩みました。慣れない外国生活への不安、英語以外の言語が日常語である大学の環境。

そんな中、基礎医学、生理学を研究されている富山大学の歌 大介先生より「先輩の先生がかつて留学した世界的権威の教授がいる大学のあるところで、たまたま旦那さんが働くことになるなんて奇跡みたいな話だ。日本での研究なんてその気さえあればいつでもできるが、外国はいつでも行けるものではない。」と背中を押して頂きました。このご助言がなかったら踏み出せなかったと、とても感謝しています。

 

初めて教授を伺う日が近づいてきました。まずは病院にたどりつけるか。グーグルマップで下調べして、下見に。当然、オランダ語の表示しかありません。似たような建物が続くなか、日本の大学病院のイメージとはかけ離れた煉瓦造りの低い建物が歯学部病院、セントラファエルクリニックだとわかりました。しかし一体どこが入り口なのだろう?とわからないまま帰ってきて岡安先生に伺い、「この通りとこの通りとが交わる角の建物で入り口はここの通りに面している」と教えて頂き一安心。「カプアイネンフーアー33がメインエントランスだよ」と親切な教授からもメールを頂き、さらにほっとしました。それにしても最初に日本人歯科医としてアントンのところに留学された、日本大学松戸歯学部の小見山道先生の勇気、情熱はすごい、と思わずにはいられません。非英語圏で情報が入りにくく、いろいろな困難を克服されたのではないでしょうか。岡安先生も留学中、兄弟子の小見山先生に励ましてもらったと伺っています。頼れる日本人の留学経験者の先生がいる自分は恵まれていると心底思います。

いよいよ教授と初めてお会いする日が来ました。岡安先生から「アントンは能ある鷹はつめかくすというタイプの教授だ」、と伺っていましたが教授にしかも海外で初めて会うというので前日からとても緊張していました。病院に着いて秘書さんに教授を呼んでもらうと、とてもにこやかに”Welcome to Belgium.”と握手で迎えてくれ、一気に緊張が解けました。

Antoon De Laat教授の診療室で

 

診療(consultationと呼ばれます)中、患者さんとの会話はフラマン語が主ですが私には英語で説明して下さいます。最初に、ためらわず何でも質問してくれ、と言われました。岡安先生からも日本人のように感情をくみ取ってもらえるということはなく、言葉にしないと絶対伝わらない、ずうずうしいくらいで丁度いい、と言われました。こちらの拙い英語をじっくりきいてくれ、つまると “Try.”と辛抱強く理解してくれようとします。蘭、英、独、仏の4か国語を自在に操る教授はフランス語圏の患者さんにはフランス語、移民の患者さんには英語と切り替わります。

まず初日に驚いたのは大人の患者さんが付き添いを連れてくるのが一般的なことです。配偶者であったり、友人と思われる人であったり。お父さんが奥さんと息子さんを連れて診療室に来ることもあります。一人で受診している患者さんのほうがまれなくらいです。身近な人と情報を共有するのはいいことかもしれません。ヨーロッパ人というと個人主義だと思いがちでしたが家族、友人との絆が日本より強いのではないかとも思いました。

 

顎関節症の他、舌痛症、三叉神経痛、繊維筋痛症、矯正治療中の顎や顎関節の痛み(とても多いです)、群発頭痛などかなり重症な頭痛の患者さんが多数訪れています。

顎関節症の治療にはまずスプリントを作製して試してみるものだと、ここに来るまで思っていました。自分が働いていた歯科医院でも顎関節症の治療を受けた人の話でも、まずはスプリントを試してみる、ものでした。教授によるとそれは50年前の治療法だ、とのこと。

こちらではキネジストと呼ばれる理学療法士がたくさん開業しており、医師とパートナーとなり治療にあたります。まずはキネジストによる治療を行い、その経過次第で初めてスプリントの作製をするようです。

スプリントの調整のときに咬合紙を使いながら、「日本では何でもまず咬合ありきみたいだね」、と言われました。確かにこちらではほとんど咬合審査はしていません。

 

ブリュッセルはヨーロッパの中心に位置し、ルーヴェンはブリュッセルから列車で約30分です。ヨーロッパの各都市からブリュッセルまでは高速鉄道でアクセスしやすいのでヨーロッパにお越しの際はKU LEUVENのアントン デ ラート教授のクリニックを訪ねてみてはいかがでしょうか。1日でも快く受け入れて下さるはずです。 

 

 

最後になりましたが、教授に紹介して下さり貴重な勉強の機会を与えて頂き、ご助言を頂いている岡安一郎先生に心から感謝申し上げます。

 

2014年6月 安陪 春菜

フランボワイヤン・ゴシック様式の市庁舎は石のレースと呼ばれヨーロッパでも有数の美しい建物で圧倒されます